タイトル未定:読ドロ

     1

 ――きもちわるい。
 はじめにそう思ったのは、高校の頃だった。
 『ホテル街』とはなにか、を理解しちまったのさ。
 兄貴がそこに消えていくのを、一度ならず見たことがあった――それも、毎回違う女を連れて。
 早く退治人になりたくて、俺はこっそり兄貴についてまわってたんだよ。もちろん、兄貴に面と向かってついていきたいっつっても、おみゃーにはまだはえーわ、とか言われて許されなかったんだが――ったく、誰が女をホテルに連れ込む方法を見てえなんて言ったかっつうの。
「兄貴は、俺と妹のために退治人をしてる」
「うん」
「……そこに娯楽がなかったら続かないことも理解してる。理解してても……、違う女を取っ替え引っ替え遊んでんのは、気持ち悪い、と思った。思っちまった」
「……、うん。そっか」
「生涯ひとりしか愛すな、なんて無理だって、わかっててもさ……」
 嫌悪感とはそういうものだ。
 滔々と語る俺の言葉に、ドラルクは静かな相槌をうつ。
「しかたがないさ。肉親のそういうのって、結構キツイっていうもんなあ」
「……、いいのかよ」
「うん?」
「おまえとも、たぶん俺、セックスはできない」
「……、」
 なんでこんな話をしたかって、べつにドラルクの同情を買いたかったワケじゃねえ。
 告白を受けた。
 俺が好きだとのたまう吸血鬼に、俺はこう返したんだよ。
 わかった。でも、セックスがしたいなら、ほかを当たれ。
 それだけじゃ意味がわからねえだろう? だから、長々と理由を説明していたってワケさ。俺の言葉に動揺していたドラルクも、話が進むにつれて神妙な面持ちになった。なってくれた。それだけでも、正直なところ救われている。
 さて。
 核心――お前とはセックスができないこと。
 そこに触れられたドラルクは、考えるように顎へと触れた。
 べつに、俺たちの関係はこのままでもよかったはずなのだ。好きだなんだと面と向かって言わなくたって、毎回往復で一日を四、五時間潰す俺と、ジョンじゃあ食い切れないような食材を俺のために買い込み、料理するドラルク。多少の情がなければ、おたがいそんなことはしない。と、思う。おそらく。
 もとの関係のままならいい。付き合えないヤツと一緒にいるのはつらいから来ないでほしい、と言われたら。
 俺が悪いとわかっていても、恐ろしさで顔が下がった。
「べつに、私はセックスがしたいだけで君に気持ちを伝えたワケじゃないよ。……まあ、そりゃあいつか、もっと仲良くなれたらと思ってなかったかと言われれば、それは嘘だけれど……、」
「……もっと仲良くって」
 これ以上なにをしたらそうなるんだ。もうマックスだと思っていたが。
「ん、ほら。キスをしたりとか」
「……キス」
「うん。……キスもいやだった?」
「あんまり、……いや、でも……」
 それくらいは。
 それくらいは受け入れねえと、飽きられちまうか。
 意を決して許しを出す前に、ロナルドくん、と呼ばれる。やわらかい声。
「いいんだ。いいんだよ、無理はしないで。君が無理をして私に合わせるくらいなら、お付き合いなんかしなくていいんだ。友達として、友達のいちばん上に置いて」
「……んなの、もともとだけど」
「ング」
 あ。
 ドラルクって、たまにこうやって息を詰めるんだよな。クソザコだから、なんか気管支とかにあるのかもしれん。
「ドラルク?」
「あ、いや、なんでもない! ええと……、そう、そうだな。……私は君が好きだよ」
 わたわたと元に戻ったドラルクが、じいと俺を見つめて言う。正直なところ、動揺した。まだ、それを言い続けられるとは思っていなかったからだ。
「ん、あ、おう……」
「正直な話、キスもセックスもしたい。……けれど、君が望まないことはしたくない、とも思っている。だから、君がいいと思うまで、どちらもしない」
「……ドラルク」
「もし、君が私に我慢させたくないと思うのだとしても。よそで済ませろとか、君が我慢してそれらをするとか――そういうのは、私うれしくないなあ、って思うよ」
「……そういうことをするほうが、うれしいんじゃないのか」
「まさか!」
 俺が首を傾げると、吸血鬼らしい大仰なしぐさで、ドラルクが腕を広げる。片手を胸に当て、まっすぐと俺をみて、あれは言った。
「私だけがうれしくてどうする。……よそで済ませたとして、君は『アイツ、いま気持ち悪いことしてんのかな』とか思うだろ」
「……、思う」
「君が我慢したとして、君もうれしくないし、私だって我慢してる君に触れるのはうれしくないよ」
「でも、吸血鬼は嫌がられんの好きだろ」
 食い下がると、ドラルクはイヤそうに顔をしかめる。
「待って。それって君がいままで退治した連中の話? 私はふつうに、無理矢理とか大嫌いなんだよ。君に私がなにか強制したことあるかい?」
「すぐ寝ろって言うじゃん」
「そんなの、君があきらかに寝てなさすぎるクマをこさえてくるからだよ!」
 ドラルクはまたも大仰な仕草で身体を逸らし、おっほん、とおっさんくさい咳払いをしてから、俺にまっすぐ向き直った。真剣な表情に息を呑む。
「寝る時間を削ってまで、私に会いにきてくれる。そんな君に、私だってなにかを返したいと思うよ」
「んなの、もうじゅうぶん」
「ダメ。私が満足しない。これは私のエゴだから」
 あれはゆっくりと片膝をつく。ただでさえ低いところにある頭がぐんと低くなって、やっぱりコイツ脚なげーよな、とか意識が逸れていっちまう。
 だが。
 真剣な表情で右手を差し出された。
 わかるよ、そこに俺の右手を乗せろってことだろう。わかるけど、実行はできない。だって、そこに乗せたら、こいつは。
 こいつは、俺に縛られてしまうのに。
「おねがいだよ、ロナルドくん。私に、君を縛る権利をくれ」
「……あ?」
「口約束でいいから、誰のモノにもならないって言ってよ。私のモノになるって」
「おまえの……」
 おまえが。
 ドラルクが縛りたいと願うなら。
「なら……、」
「うん」
「……おまえは、俺の?」
「うん、……うん! そうだよ、私は君のモノで、君は私のモノ!」
 そう言って、ドラルクが心底しあわせそうに笑う。まだなるって言ったワケじゃあねえのにさ。差し出されたままの手に俺の右手を乗せると、ドラルクの豆粒みてえな虹彩がきらりとかがやく。
「二言はねえな。やっぱりヤメだ、とか言うなよ」
「もちろんだとも! わあい、ロナルドくん大好き!!」
「ふは、大袈裟だな」
「……ン!? 待って、おかしくない? 私最初にも好きだって言ったじゃん!」
「そうじゃなくて。よろこびようがさ」
「あぁあびっくりした……そりゃあ喜ぶとも、君に好きだって伝えるの、もう我慢しなくていいんだもん」
 そこまで言って、はた、とドラルクがなにかに気付いたようだった。しんと静かになって、おずおずと上目遣いにこちらを伺う。
「あのね、本当なら君のこの手にキスをしたいんだ。でも、それは我慢する。だから、代わりに君を抱きしめてもいいかい」
「……、」
 べつに手ぐらいなら、とも思わなくもないが。ドラルクが俺のために我慢をしてる、っつうのが、思いのほかうれしかった。ので、提案を飲むことにする。
「いい。……抱きしめてもいい」
「!!」
 広げた腕に飛び込んできたガリガリは、びっくりするほど軽かった。
 
     2
 
「お互いに譲歩できるラインを探そうと思う」
 別日。
 ソファに隣り合った状態で、ドラルクがそう言った。顔はどこか引き攣っていて、緊張してんだなあ、と思う。
 ……緊張させるのは、本意ではなかった。あのことを伝えたのは悪手だったなとは思うものの、断って、離れるのが嫌だったんだ。自己保身のために、俺はドラルクを現在進行形で傷つけているのがわかっている。
 ひとまず、ドラルクの話を聞いてやろう。
「譲歩って?」
「いや、気になったことがあって。前にさ、地下の温泉に一緒に入ったりとかしたでしょう。あれは平気だったのかなって、君が帰ったあとに気付いて……」
「そりゃあまあ。べつに男同士でどうこうあると思ってなかっ、……」
 ――そうか。
 友人同士なにが起こるワケもねえ、って、あんときゃあ思っていたが。
 考える。
 どうこうあるかもしれない、として。
 ドラルクは。ドラルクなら。
「……いいよ」
「へ」
 デカイ目をさらにデカくさせたドラルクに笑いかけてやる。『ロナルド様』の高圧的なそれにならないよう、努めて、やさしく。
「お前なら。俺がいやだってわかってて、へんなことはしないだろう、お前」
「え、あ、うん!! ……、いいの?」
「まあ。……可能性に気付いたら、ちょっとゾッとはしたけどな。そういう目で見られること自体にはからどうでもいいし」
「ゾッ、どっ」
「どちらにも我慢させたくないって、お前言ったろ。だけど、お前が我慢するなら、俺だって我慢すべきだと思う。べつにお前と風呂に入るのが嫌いなワケじゃないし」
「……ほんと?」
「ん?」
 どれに対しての問いかけだ。わからなくて首を傾げると、ドラルクがひとつ息を吐く。まっすぐと俺の目を見て、私に裸を見せるのはいいの、と言った。
「いいよ。というか、もう見られてるモノを今更隠したところでな」
「そ……、そっか。うん、わかった。でも、一緒に入りたいと思ってはいないとかはない? たとえば、私は服を着たままでさ、君の背中を流すだけとか」
「逆だろ。俺の裸だけお前が見んのは不公平だ」
「……私の裸見たい?」
「いや、そんなに」
 興味があるかないかと言われれば、ガリガリ度合いが面白いなとは思うから、あるのかもしれねえけど。べつにわざわざじっくりと見たいほどでもない気がする。
 そうだよねえ、と俯いてから、ドラルクは気を取り直すように頷いた。
「抱きしめるのはいいんだよね。前も、いってらっしゃいのハグをさせてくれたし」
「おう」
「……今日も、本当はね、おかえりのハグがしたかったんだ。今からしても?」
「おう。いいぜ」
「本当に? 私のために言ってない?」
「その質問は俺のためだろ。ならあいこだ」
 おたがいがおたがいを思っているのなら、なんにも問題なんかないだろう。
 ん、と手を広げてやる。ドラルクはすこし逡巡して、それから意を決したように身体を倒した。細く角張った感触。
「ロナルドくんはあったかくてかわいいね。私、つめたくない?」
「んー、まあ。どっちかっつうとぬるい」
「ふふ、そっか。大好きだよ」
「……うん」
 あいまいな返事だな、と思う。
 了承はしたが、結局のところ、恋とか愛とかでドラルクのそばにいるのか――自分では、よくわかっていねえのだ。
 あれの言葉に頷いたのは保身であって、愛だとするならそれは自己愛でしかない。ドラルクの隣は心地よく、飯がうまいし、勝てなくてもゲームは楽しくて、温泉は気持ちがいいと思う。サウザンド・ウォーを無期限延期した代わりに相棒としてしまったせいで、ロナ戦のためにもドラルクとの縁が切れてしまう選択肢は選べないのだ。
 俺は結局のところ、自分にメリットがあるからドラルクのそばにいるだけ。
 ――兄と、今の俺は、果たしてどちらが『気持ち悪い』のだろう?
 こうして抱きしめられるような価値が、俺にあるとは思えなかった。
「……ドラルク」
「うん?」
 かつてないほど近くで、ドラルクの低くてやさしい声がする。
 泣きそうだ、と思う。
 俺はきっと、ドラルクの望むものにはなってやれない。
「……こんなことしか、してやれなくて、悪い」
「え?」
「……、……」
 ほんのすこしだけ、ドラルクが重みで死なないように気をつけながら、その肩に頭を置いてみる。意外と肩幅が広くて、でも厚みがないからちょっと刺さる。おそらく、ドラルクでしか得られない感触のひとつなのだろう。
 背中に回した腕は、どこまで力を込めて許されるんだ?
「ろっ、ロナルドくん、」
「……いやかよ」
「ちが! 違くて、えっと、でも、いいの?」
「……?」
 首を傾げたら、肩先が頬に刺さった。痛みがおもしろい。
「だって私、君が気持ち悪いっていうことを、君にしたいと思ってるんだよ。そんな相手に、こんなふうに擦り寄っちゃダメだ」
「なんでだよ」
「そういうことをしたくなっちゃうから!!」
「……え」
 そういうことを思われるだけならいい、とは思っていたが。
 すこし身体を離してみて気付いた。ドラルクの顔が、人間みてえな色になっている。
 それから、必死に引かれたドラルクの腰に、起伏があることも。
「……、……」
 ………………………………………………………………………………………………。
 あ?
「い……いままでは、こんなに近くにならなかったから……!」
「……あ、あー……」
 そっか。
 そうなのか――下手に身体を寄せると、そういうつもりにさせてしまう、らしい。
 俺のせいなのに、我慢させるのか?
 だが、俺になにができる?
「ええと、あのね、そのう。ごめん、怒るみたいなこと言っちゃって……」
「……いや、いや。悪い、あの」
「ううん! 気持ち悪い、よね? ごめんね、ちょっと、処理だけしてくるから、」
「あ……」
 なにも言えない。
 なにもできない。
 ぞわぞわと背筋を悪寒が走っている。
 離れていく細い身体を、ただ見送るだけ。
「ごめんね、気持ち悪いね。大丈夫、君にぶつけたりしないよ」
「……ぅ、」
 ごめん。
 ごめんな、ドラルク。
 違うんだ。
 ドラルク。お前が正常で、俺が異常なんだ。
 
     3

 地獄みてえな時間だった。
 いまあれはシコってんのか。しかも俺をネタにして。
 そう考えると気持ち悪い、とも確かに思う。だが、そもそも俺は男なんだ。あれよりも背が高く、多少は筋肉もついているはずの身体。服越しに抱き合っただけで、興奮するようなモノではない、と思う。俺にそういう目を向けてくるのは、外見にしか興味のねえ女か、キモいおっさんか――人間を甚振るのが趣味の吸血鬼か。
 ドラルクは……人間を甚振るのが趣味というワケではない、と思う。ゲームだって、俺に難易度を合わせてくれたりするし。
 いままでとは違う吸血鬼。
 なのに、俺は。
「……、」
「ええと……お待たせ、ロナルドくん」
 気配に振り返れば、気まずそうな顔のドラルクがいた。
「悪い」
「へあ、いやいや! 私もごめんね、もっと早く、止めてあげるべきだったというか」
「ン……いや。俺が悪かった。俺のために譲歩してくれてんのに、俺のせいで」
「それは違う」
 キッパリと、あれは言う。
「君のせいなんかじゃない。……君がそういうことをしたくないって、それは最初からわかっていたんだ。なのに肌を、服越しでも触れ合わせることを要求した」
「だけどよ。前は大丈夫だった。それは俺が余計なことをしなかったからだろう」
「余計なことじゃないよ、嬉しかったんだ!」
 ソファに座ったままの俺。その前までドラルクが駆け寄ってきて、膝をつく。あの日、俺の手を掬い上げたときと同じ格好。
「……嬉しくて、なんだか、いけない気持ちになってしまった。君が手に入ったと、その実感を得たというか……」
「手に……まあ、それはそうなんだが……」
「ングぇ」
「あ?」
 またドラルクが息を詰めた。大丈夫かよ、その癖。
 ともかく。
「……あのさ」
「……うん」
「俺も。抱きしめるぐらいなら、いやじゃないのは本当なんだ」
「! そうなの?」
「そうじゃなきゃ、あんなふうにしねえよ」
 ドラルクの右手が、そうと伸びてくる。それは空中でためらいを見せてしまって、俺にはなにをしたいのかよくわからなかった。受け止めてやるのが正解なのか、間違いなのか――判断ができない。
 結局その手は空中で握られ、あれの胸元へと戻っていく。
「……さっきのはただ、驚いただけ……だと、思う。なんつうか、お前が本当に俺をそういう目で見てるっつう、実感がなかったというか」
「そ、そうなの……?」
「本当に勃つとは思ってなかったんだよ、悪いかよ。いや不能だとか思ってたワケでもねーけど、なんとなく、現実味がなかったんだ。……風呂のことだって、言われるまでなんにも考えてなかったし――」
 それに。
「……お前のやさしさにさ、俺はつけ込もうとしたんだよ」
「へ」
「俺はただ、保身のためだけに動いてる。それはお前だってよく知ってるだろ」
「は?」
「お前の要求は飲めないのに、俺の要求ばっかりだ。お前が結局聞いてくれるから、ずっと甘えてるだけで」
「そんなことない!」
「あるよ」
 なんでお前が否定するんだ、これだけ不利益を被っておいて。
 気色ばんで立ち上がったドラルクが、なぜか辛そうな顔をしている――そんな顔をさせたいワケじゃない。いつもの、ふわふわした楽しそうな顔をしていてほしい、と思う。だけど、ドラルクはいつも勝手に楽しそうにしていたから、どうしてやればいいのかわからねえんだ。
「ハグは? あれは私が頼んだでしょう」
「そうだな。でも俺は失敗した」
「それは違うって言ったじゃないか!」
「違くねえって。事実を認めてもらったほうが、やさしくされるより助かることもあるんだぜ?」
「ロナルドくん……」
 ああ、今度は悲しそうな顔になっちまった。
 やっぱりダメなんだな。ドラルクはいつも楽しそうだった――俺が由来ではなかったんだろう。
 飯を与えて、身を清め整え、ベッドで寝かせられるなら、きっと俺でなくてもいい。俺よりもいいヒトが、ドラルクにはいるはずだ。
「悪い。ごめんな、ドラルク。俺がこんなおかしいやつじゃなかったら、お前になにか返してやれたんだろうが……ダメみたいだ。だから」
「そんな、そんなことない! 君がなにを言うのかわかるよ、でも絶対に別れてなんかやらないぞ。君は私のモノだって、あの日はっきり言ったんだ!!」
「ドラルク……」
 がしりと肩を掴む、ひどく弱い力。それが全力だとわかる程度には一緒にいるのに、そのはずなのに……ドラルクの考えていることがなんにもわかりゃあしねえ。
「なんでだよ。言っておくが、執着がどうこうなんて話はどうでもいいぞ。俺に執着したって、お前にメリットがないだろうって話をしてるんだ」
「あるんだよ、ないワケないだろう! 一緒にいられるだけでいいんだ、嘘は言ってない。もっと親しくなりたいし、そのためのステップを間違えてしまったのだって私じゃないか……」
「……間違えてなんか」
「なくないよ。……ロナルドくん、お願いだから、私にチャンスをちょうだい」
 チャンス。
 チャンスをもらうのは、俺じゃねえのか?
 その思いのままに首を傾げてみせると、ドラルクがゆっくりと腰を下ろし、また床に片膝をつく格好になる。肩にあった手がゆっくりと降りて、俺の両手を握った。
「ハグはもうやめる、って言おうとしていたんだけれど。君はいやじゃないって、そう言ってくれたね」
「……おう」
「でも、私も君と密着して、絶対に我慢できるとは言い切れないんだ。それがよく、よおくわかった。おたがいにね」
「……、おう……」
 きゅう、とほんのすこしだけ手を握る力が強くなって、ドラルクの緊張が伝わってくる。握り返してやりたいけど、それが正しいのかもわからねえ。
「――たとえばだ。いま私は、君の手を握っているね。これよりも範囲の広い身体的接触は、君が私に触れたいと思ったときだけ、と限定するのはどうだろう?」
「……俺が?」
「うん。君は慣れたと言っていたけど、性欲を向けられることを許容できているってワケじゃあなさそうだったから」
「……、」
「私は君に下心がある。そんな私が君に触れたら、そりゃあ怖いさ」
 怖い。
 怖いのか?
 抱きあうこと自体は怖くなかった。それは断言できる。
「でも……抱きしめるのくらいなら怖くねえし、さっきのは、俺が」
「うん。そこは私が頑張るところさ」
 ドラルクはなぜか胸を張って、偉そうな顔をした。俺がもうちょっと短気だったら、顔面を殴り飛ばしているかもしれねえ。
「絶対に、とはまだ断言できないけど。やばそうだなと思ったら、ちゃんと止める」
「……、」
「もしも私が我を失いそうになったらさ、殺してでも止めておくれよ。そんなことはないって言いたいけど……私もまあ、男なので……」
 ごにょごにょと語気が弱くなる、情けねえ姿。
「……、ぷは」
「へ」
「ふへ、あははは!」
「え、え? ロナルドくん?」
「ふひ、ふ、だって、お前! ちんこの制御もできねえで、そんな、情けねえ声、ふ、あはっ……!」
「わ、わ、なあーっ!? わ、私は真剣にだなあ!!」
「わ、わかっ……それが、あははっ」
 違うんだ。
 面白がってるんじゃない。
 嬉しくて、勝手に笑いが込み上げるんだ。
「あは、ふ。ドラル、ドラルク」
「もう、なんだい!」
「あのさ。俺も、お前と全部一緒じゃないかもしれないけどよ、たぶん、お前のことぜ」
「な、…………!? ……!!」
「お前、待てるつもりなんだろ。俺の気持ちが、お前のと全部一緒になるまで」
 か弱い手を振り解いて、砂にしないよう気をつけながら握り直してやる。こうすんだ、覚えろよ。そういう気持ちで。
「だったら、ちゃんと教えろ。なにがよくて、なにがダメで、どうすればいいのか」
「……ロナルドくん、」
「俺はを知らない。吸血やセックスのためだけじゃないもてなしなんか受けたことはねえんだ。お前が欲しいのは、そのふたつだけじゃない。……それで合ってんの」
「あ、ってる。合ってる、その通りだ! だから、私と……っ」
 ドラルクに、俺の手を振り解く力はない。
 それでも、必死になってもぞもぞ動くそれは、やがて俺の手を握り返す。
「私と、改めてお付き合い、してください!」
 うん、と。
 ひどくやわらかい声が出た。
 
     4

 時折、手を繋ぐ。
 ゲームのロード中とか。
 俺が原稿に煮詰まった時とか。
 運転中の信号待ちとか。
 視線を合わせることもあれば、ただ繋がれた手を確認するだけのこともあった。
 俺から触れられるようになることはまだない。ドラルクから触れられるのは手だけ。
 いまどき、小学生だってこんなことを恋愛とは呼ばないだろう。
 それでも――そんな関係を許されている。それがひどく、嬉しかった。異常なことを受け入れられている、譲歩されている。申し訳ない気持ちも強いが、それ以上にドラルクの気持ちを感じていて。
 それ以外は、おおむねいつも通りだ。ツチノコとかぼちゃを連れていって、ジョンが嬉しそうに相手をしてくれる。弟分みてえに思ってるんだろうな。んで、俺はドラルクにもてなされてさ。今日は頑張ったんだぞ、と主張すると、頭を撫でてもらえる。兄貴に褒められるのはあんなに癪なのに、ドラルクのそれはきもちがいい。触り方の差なんかな。ドラルクはジョンで撫で慣れている。
 目を閉じてそれを受け入れていると、じい、と唇に感じる視線。
 まあ、当然だよな。
 いつかキスがしたいとは、はじめの日に言われていたし。
「……ドラルク」
「うん?」
 ジョンたちがいるときは出さねえ、ドラルクの甘ったるい声。
 特別なあつかいを受けている、ような。
 それが錯覚なんかじゃねえって、信じられる、ような。
 ならば――返さなきゃならねえんじゃないか。
「ドラルク」
「うん。どうしたの?」
「……抱きしめても、いいか」
 髪のあいまからドラルクをしっかりと見据えて、言った。
 まだ、キスとかそういうのは怖えけど。
 抱きあうぐらいなら、俺が失敗しなきゃいいだけの話なはずだ。
 緊張は、おそらく顔に出ている。だからドラルクも驚いたような、心配するような顔をした。やっぱり、俺からなにかをしようとしたときに、ドラルクがあの笑顔になることはないんだよな。
「……いいのかい? 怖くない?」
「抱きあうのは。……失敗するのは、すこし」
「……、そう。無理はしてないね? 私のためじゃない?」
「お前のため、だけど……、」
 なら、と口を開くドラルクを遮り、その赤いひとみから視線を逸らさず。
「お前がうれしいと、俺もうれしい、と思う。……それはたぶん、お前と一緒だ」
 いままでは、いつもドラルクから抱きしめられていたから。
 すこしだけ下にある身体に、覆い被さるみてえにしてみた。たぶん合ってるのか、ドラルクは逃げたりしねえ。手だけで感じていたぬるい体温を全身で感じるのは、きもちいい、と思う。素肌だったら、もっとつめてーのかな。あたたかいのかもしれねえが。そんなことに興味を覚える日が来るとは思っていなかった。
 ええと。
 あんまり擦り寄ったりするのは、よくないはず。
 ならどうしたらいいんだ。腕の位置は合っているか。へんなとこ触ってねえ?
 怯えを隠すことは、あえてしない。しなくてもいいと、思った。
「ロナルドくん」
「……ん、」
「大丈夫。間違ってないよ、もうすこしこちらに体重をかけてもいいぐらいだ」
「……潰れねえ?」
「無理そうだったら言うからさ」
「うん……」
 そうっと、そうっと、身体を寄せてみる。
 ふふ、とあれは笑って、俺を受け止めてくれた。
 ああ、大丈夫なんだ。
 安堵から出た嘆息は深く、呼吸が浅くなっていたのを自覚する。すう、すう、と息をすれば、ふわりと香る防虫剤みてえなにおい。
 ドラルクのにおいだ。
「……どらるく、」
「うん?」
「俺……おまえのにおい、すきだ」
「へ」
「こうしてる、のも。安心するから……」
「……っ、」
 ぎゅ、とほんのちょっとだけ、ドラルクの手が握られる。
 いやだったか、こんなこと聞くの。ドラルクはいまだって、俺のために我慢しているのにな。すこしはなにかを返したくて、けれど失敗している気しかしない。
「……ありがとう。ありがとう、ロナルドくん」
「ン……?」
「きみが心を開いてくれて、とてもうれしい。……本当に、怖くない?」
「……ん。いまは、大丈夫……」
「よかった。……名残惜しいけれど、そろそろご飯にする? 先にお風呂のほうがいいかな。今日も仕事だったんだもんね」
「あー……」
 どうすっかな。
 どうせなら、風呂上がってから抱きしめてもらえばよかったかもしれねえ。いまさら気付いてもあとの祭りだ――いや、風呂上がりに、もう一度を頼んでもいいか? それはさすがに厚かましいかもしれん。
「……メシもらう。今日は?」
「ふふっ、驚くなよ? 今日はだな――」

コメント

  1. 匿名 より:

    愛しかない……